湯気が立つように目尻を下げるから
わたしはきみをひらがなで呼ぶ
きょうの主役(ちなみにわたしにとっては365日主役)を想って詠みました。
だいすきなやまだくんの笑顔。
いとおしいものに向けるほほえみや、愛のまんなかで自然と生まれるくしゃくしゃなお顔がたまらなくすきで、
もはや「すき」のことばじゃきもちを取りこぼしていて、もどかしさすら感じてしまうほどです。
炊飯器を開けたときに炊き立てのつやつやごはんから立ち上る湯気とか、
1日の終わりにお風呂に浸かりながらぼうっと見つめる湯気とか。
そんな日常のこころがほどけていく瞬間と、端正なお顔がほわっと緩まるそのようすは、白く透明なもくもくで結びつくなぁと思ったのでした。
わたしはお手紙でもうちわでもツイッターでもブログでも、あなたのことをひらがなで書き表します。
でも、目に見える文字だけじゃなく、わたしがきみのことを惚気るときや、きみの名前を呼ぶときのそれも変わらずやわらかくありたくて、それで、ひらがなのかたちで呼んでいるのだよ、ということを言葉にしました。
(音の数に制限があるからふつうは「わたし」とは書かなくてよいと思うのだけれど、ひらがなでお名前を書くことははわたし自身のちいさなかたいこだわりなので、短歌にも自我が出ちゃいました)
それではあらためて。
やまだくん、
お誕生日おめでとうございます!
特別な日に寄せてことしはなにをしよう…と考え、新しいことに挑戦してみたくて、短歌(と呼べるのかはわからない31音の短い詩)をつくってみようと思い立ちました。
これまで綴ってきたブログたちとはちがって直接的なきもちの表現はないけれど、わたしがやまだくんに向けるまなざしの感じが表現できていたらいいなと思っています。
正直なところ、昨年から現在まで続く怒涛の修行期間の中で、よくもわるくも自分の中でいろいろなことが変わってしまった気がしていて。なんとなくさみしさや心もとなさ、足元の不安定さを感じています。
でも、ひとつおどろいたことがありました。
それは、やまだくんの手を離してしまった(とわたしが思っていた)ときも、やまだくんはそばにいてくれたということです。
たとえるなら、透明な糸がこゆびに結ばれているような感覚。
手はつないでいなくても、近くにいてくれたやまだくんのおかげでふっとこころの凝りが溶けたり、ぴっと背筋を伸ばしたりできました。
やまだくんがいまどんな髪色で、どんなお仕事をしているのかはわからなくても、
やまだくんがこれまで見せ続けてきてくれた真摯な姿勢、くれた言葉、わたしの中にある揺るがないだいすきのきもちが、
わたしを奮い立たせてくれました。
優しく励ましてくれもしました。
今、自分の世界が広がってゆくにつれ、たのしいと思えること、いっしょにいてしあわせだと思わせてくれるひとがどんどん増えていっています。
でもやまだくんのそばにいてはじめて知ることができるきもちも、まだまだたくさんある。
顔を見られた 声を聞けた、それだけで涙が出ることもあるんだな〜、こういう表情にわたしは弱いんだな〜などと、新しい自分を見つけたり。
すきな色のリップを塗ったひとに魅力を感じる、という言葉に背中を押されたり。
だから、これからもわたしはきっとやまだくんを追いかけ続けるんだろうなぁと、確信に近いきもちで思うのです。
きもちを保つためにメモ帳に書き留めていた「受験が終わったらやりたいこと」のフォルダには、やまだくんに関することがこれでもかといっぱいある。
29歳のやまだくんを見つめるわたしが、
恋にめらめら燃えているのか、
おだやかにゆるやかにすきをかみしめているのか、
それとも、日々に忙殺されてすきのきもちをこころの奥に押しやってしまっているのか。
それはわかりません。
だけど、いま、こうしてよいせよいせとだいすきのきもちを花束にまとめられていることがしあわせでしかたなくて、その事実だけでじゅうぶんなのです。
そして、願いはいつでもひとつだけ。
やまだくんのこの一年が、愛としあわせに溢れたものでありますように。
やまだくん、だいすき!
(この春新しい土地に向かう途中で一枚 つめにはお守りの色!)